2010年3月21日

「奇妙な仕事」

「附属病院の前の広い鋪道を時計台へ向って歩いて行くと急に視界の展ける十字路で、若い街路樹のしなやかな梢の連りの向うに建築中の建物の鉄骨がぎしぎし空に突きたっているあたりから数知れない犬の吠え声が聞えて来た」

「風の向きが変るたびに犬の声はひどく激しく盛上り、空へひしめきながらのぼって行くようだったり、遠くで執拗に反響しつづけているようだったりした」

「僕は大学への行き帰りにその鋪道を前屈みに歩きながら、十字路へ来るたびに耳を澄した。僕は心の隅で犬の声を期待していたが、まったく聞えない時もあった。どちらにしても僕はそれらの声をあげる犬の群れに深い関心を持っていたわけではなかった」
大江健三郎「奇妙な仕事」(1957) より引用 

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